No.98 マツ(松)
(株) 宮城環境保全研究所  大柳雄彦

 松竹梅は、正月の瑞祥植物の歳寒三友(さいかんのさんゆう)(宋代より始まった、中国の文人画で好まれる画題のひとつであり、具体的には松・竹・梅の三つをさす)の別名がある。
 松は植物分類上の裸子植物、竹は被子植物の中の単子葉植物、梅は同じく双子葉植物のそれぞれ代表であり、この三友は苦しい厳寒に耐え他の植物に先がけて開花することから新春の慶事に結び付けたものと思われる。
 その縁起ある松は、門松、松飾り、松の内、松七日、松過ぎ、などのように新春の年迎とされ短歌や俳句に詠みこまれている。松は、今ではすたれてしまった花札の正月札となっており、松に鶴が描かれた札は、役札中最上位の二十文札として喜ばれたものである。瑞祥三友のうち、竹と梅は、既に本シリーズで取り上げており、今回は松を紹介することにした。 

庭木として植えられているクロマツ

 通常マツと呼んでいる植物は、特定の植物を指しているのではない。松は分類上マツ属に含まれる植物であって、これらの文学的もしくは日常便宜的な呼称である。
 アカマツ(Pinus densiflora)とクロマツ(Pinus thunbergii)は日本の自然美の代表で、風景画、観光写真には松を入れなければ景色にならない。日本三景も松あっての景勝地である。両者とも青森県以南の本州、四国、九州に分布し北海道には自然種はなく、すべて栽培種である。両者の形質的な差違の概略を述べたのが、次のとおりである。

種 別 樹 皮 冬 芽 葉 身
アカマツ 赤褐色 細く淡褐色 細く短く柔軟
クロマツ 黒褐色 太く灰白色 太く長く剛直

 適地は一般的に、アカマツは内陸部、クロマツは海岸部といわれているが、この規則性は東日本では当てはまらない。日本三景の天橋立、厳島は、たしかにクロマツであるが、松島は、ほとんどアカマツで構成される。三陸海岸や能登半島の海岸域でもアカマツが圧倒的に多く、海から遠く離れた赤城山麓にクロマツが分布し、これが群馬県の県木として指定されている。
 余談になるが材質や強度はアカマツの方が優れており、梁など木造住宅のブランド材である甲地(かっち)松(まつ)(青森)、南部(なんぶ)松(まつ)・東山松(とうざんまつ)(岩手)、仙台松(宮城)、白旗松(山形)はすべてアカマツである。

大崎八幡宮のアカマツ
大崎八幡宮のアカマツ

 松の語源は、「霜雪を待つてなおその色を改めず」の古詩とする説があり、似たような掛歌は小倉百人一首にも載っている。

たち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む古今集 離別   中納言行平

 作者は、美男で有名な在原業平の兄、斉衡2年(855)、因幡守に任じられ、送別の宴で詠んだといわれ、「いよいよ皆さんと別れ、任地に旅立ちます。因幡山の峰に生える松ではないが、私を待つというならば、すぐに帰ってきますよというのが大意だ。また、この歌は、別れを惜しむ歌であるが、一方でいなくなった人や 物が戻ってくるように願う、おまじないの歌とも言われている。

 松が始めて古典にあらわれるのは古事記の景行天皇の条。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折、伊勢の尾津浜で食事を取った際に、剣を外し松の幹に立てかけて、そのまま忘れてしまい、後で気付き、それが無くなっていないのを詠まれた長歌、「一つ松」がそれである。以来、松ほどわが国の人々に親しまれている植物は類を見ない。特に万葉集では七十余首も歌われ、一首一首に有名な物語が仮託されており、秀歌も多い。それらの数首を紹介してみよう。

磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結び真幸(まさき)くあらばまたかへり見む(巻第2、141)有間(ありまの) 皇子(みこ) 

 有馬皇子が反逆罪の罪で捕えられ、大和から牟婁(むろ)の湯(ゆ)に送られる途中で詠まれた歌である。磐代は地名。「磐代の浜松の枝を結んで無事を願おう、命があればまた帰って見ることができるから」が大意。有間皇子を護送している一行は磐代の浜辺で小休止したのであろう。この時,皇子は自分が自分の運命,死を受け入れていたと思われる。

わが夫子(せこ)は仮廬(かりほ)作らす草(かや)なくば小松が下の草を刈らさね(巻第1、63)中(なかつ) 皇命(すめらみこと)

 中皇命(孝徳天皇の皇后)が、父の舒明天皇や中大兄皇子と共に、紀州の湯崎温泉へ向かう途中、中大兄皇子が仮の庵を作っているのを見て詠んだ歌である。「あなたは仮小屋をお作りになる草がないのなら、あの小松の下の草をお刈りなさい」が大意だが、常緑で長寿の木である松は、霊力の強いものと考えられていたので、その下に生えている萱なら、小屋を作るのに適当だと言っている。

いざ子どもはやく日本(やまと)へ大伴の御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ(巻第1、63)山上 憶良

 遣唐使として唐にいた憶良が詠んだ歌である。「さあ皆、早く大和の国へ帰ろう。難波の湊の浜松も我らの帰りを待ち焦がれていることだろう」が大意。「大伴」は大伴氏のことで、かつて大伴氏が難波地方を管掌したゆえ、「大伴の」は「御津」を枕詞風に修飾している(「御津」は難波の港。遣唐使船の発着地)。

君に恋ひ甚(いた)もすべなみ平山(ならやま)の小松が下に立ち嘆くかも(巻4、593)笠(かさの) 女郎(おみな)

 笠女郎が大伴家持に贈った歌である。「あなたを恋い慕っているものの、術もなく、全くどうにもなりません。奈良山の松の下に立って嘆きながら待っています」が大意。万葉集の巻4には、笠女郎の歌が24首も収められ、その全てが大伴家持に贈った歌である。

 最後に、近世俳諧の中からマツを題材とした句を紹介する。

清瀧や波に散りこむ青松葉芭蕉
古道をみかへる松のみどりかな其角
門松に聞けとよ鐘も無常院支考
線香の灰やこぼれて松の花蕪村

 一句目は、芭蕉が他界する3日前に詠われた最後の句である。青い松の葉が清らかな「はやせ」に散っていく姿が鮮烈である。其角は、古い道と鮮やかな緑の対照を詠嘆し、支考は変わらぬ物の象徴である松に、無常を説く鐘の音を響かせている。最後の蕪村の句は、松の花粉を線香の灰に見立てているのが面白い。

2014年1月29日
次のページは